501 今日僕らは学校へいそぐ

 

うちの壁にかかっている時計が
八回 打った。
その時 ぼくは目が覚めた
そして ちょうど目も開いた。
目を覚まして・・・
その瞬間
ズボンに 二本の足を つっこんだ。
のびをして・・・
その瞬間
長靴にぼーんと飛びこんだ!
それから シャツをひっつかみ
袖に 腕を 通して
シャツに 頭を 通したけれど、
頭がひっかかっちゃった。
やっと、シャツを着終わって、
ぼくはおもてへ 駆け出すんだ、
学生服と学生帽は
歩きながら 身につける。
ぼくは 学生服と
学生帽を
歩きながら
身につける、
だって
今日の
この日は
一年で
一番
良い
日だもの。
だって
今日のこの日は
一年で一番良い日だもの、
だって
ぼくは 今日
学校に
初めて走っていくんだよ。

僕は今日学校のなかに入るんだ、
まっすぐ学校のなかへ、
はじめてのことだよ!
僕は中に入る・・・
時計は 
9回 鐘を鳴らす。
ああもう、みなさん、道を開けてよ!
みなさん、僕らを通してよ!
ぼくら 今日学校へ走るんだ、
まっすぐ 学校へ・・・
一年生さ!

ダニール・ハルムス (1936)














  

考えることなど

 

 私が思うに、これはハルムスが、本性を隠して、生活のために書いている詩です。
 ハルムスが子供の詩で有名な作家だからといって、子供が大好きな人間であると考えるのは間違いです。その作品にはむしろ、彼は大の子供嫌いではなかろうか、と感じさせるニュアンスがいくつも登場します。小説「老婆」において彼は、通りで遊ぶ子供全員にチフスを感染させて全滅させることを空想しますし、「警句」においては子供の毒殺の必要性を匂わせています。
 ハルムスが書いた子供の詩を読むとき、まず考えなくてはならないことは、彼が子供の詩以外発表を許されていなかった、ということです。あらゆる創造的な仕事をしている人のなかで、いわゆる「金のための仕事」から自由である人は、ほんのひと握りでしょう。ハルムスもその十字架を逃れられたわけではなく、むしろ生まれてきた時と場所が悪かったために、誰よりも巨大な十字架を背負っていたと言えます。
 だからこそ、私はハルムスの書いた子供の詩が好きなのです。
 子供の詩を書くときの彼は、ありとあらゆる事情に縛られて、ひどく大人の顔をしています。自分の本音を隠し、自分の願望を押し殺し、彼はある種の芝居を演じるのです。怪物が、わざと無邪気な目をつくり、子犬の振りをしているようなものです。しかも彼はそれを、生きてゆくために、遊びではなく本気でやらねばなりませんでした。子供の詩を書いているときの彼は、必死です。もともとは奇怪な人間である彼が、好きでもない子供の事を真剣に考え、子供の思考にシンクロしようとし、子供が興味を持ちそうな題材に目をこらすのです。そこに、ハルムスの、一筋縄ではいかない、ごく人間的な複雑さが生まれていると、私は思います。
 ハルムスもまた、音楽をやりたいのに楽器屋で働く人や、小説を書きたいのに編集者になる人、漫画を書きたいのにコンビニでバイトをする人、ありとあらゆる「やりたい事とは別の事をやらねばならない人」と、同じ人間なのです。つまりは、私とも同じ苦痛を抱えた人間だということです。それでいてハルムスは、やはり奇人変人の類なのです。
 ハルムスの書いた子供の詩を読むとき、私はいつも、ニヤニヤ笑っています。
 なんて嘘つきなんだろう、と思うのです。
 そして、この人は、こういう風に、大人の怪物になったのだ、と思うのです。                                                      

 
                                        カチカ